森の里へ行った。 公園広場にカリフラワーのような老木が立っていた。 樹種はしらないが、あきらかに樹齢は高そうだった。 誰かさんの真似して触ってみた、そっと手を添えて。 あたたかく頼り甲斐のある、落着く感触だった。 穏やかな落ち着き感。 4年前に亡くなった父の感じ、そのものだった・・。
一昨日は宇都宮へ行ったが、やはり「城西方面」が良い。 神奈川横浜横須賀厚木足柄小田原宮が瀬・・。 GoWest♪そんな感じの今日この頃です。
〜癒しの言葉〜(転写)
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「すべての日が、それぞれの贈り物をもっている」
-- マルティアリス(ローマの詩人)--
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何かがうまくいったり、思い通りに物事が進むと、私たちは気分がよくなるものです。 そんなときには、自分に自信を持てたり、生きるのが楽しくなったりします。幸せを感じるのですね。 逆に、何をやってもうまくいかない、思い通りにならないときには、自分が不幸になったような気がします。イライラしたり、怒りや悲しみを感じたり…… あるいは、自分を情けなく思ったり、毎日が辛くなってしまうこともあるでしょう。 何かが思い通りになるときが「幸せ」で、思うようにいかないときが「不幸」です。 それは、ごく自然で、当たり前のように思えますね。
しかし、はたして本当に、それは自然で当たり前なことなのでしょうか?
もしそうなら、自分が「幸せ」でいるためには、いつも、物事が思うようにいっている必要がありますよね。
考えてみれば、そもそも私たちが生まれた瞬間から、何ひとつ、自分の思い通りになったことなどなかったようです。 どんな親のところで生まれるか。 何人兄弟の何番目の子になるか。 何月何日の何時何分に誕生するか。 生まれた日の天気は晴れていたか、雨だったのか。 男か女か。
どんなことも、自分が思うように選んだわけではないですよね。 また、生まれてからも、いつも両親が側にいて愛情を注いでくれていたとは限りませんし、お腹がすいてもすぐにはオッパイがもらえなかったり、おしめが濡れても、気がついてもらえないこともあったでしょう。
きっと、そんなときには、腹が立ったり、悲しくて泣いてしまったでしょう。 でも、だからといって、自分が不幸だと思ったことはなかったのではないでしょうか。 少なくとも、自分をみじめに思ったり、生きるのがイヤになったりはしなかったはずですよね。
思い通りにならなくても、それは、ただそれだけのこと。 自分が「幸せ」なのか「不幸」なのかということには、関係がなかったのです。
それが、気がつくと、いつの間にか、思ったようになると「幸せ」、思うようにならないと「不幸」だと思いこんでしまっています。 昔は、どんなに思い通りにならなくても不幸ではなかったのに、今は、不幸になって、落ち込んでしまうのですよね。
いったい何が変わってしまったのでしょうか?
たぶん、今も生まれたときも、私たちが、日々出会う出来事は、それほど違ってはいないでしょう。
うれしいこともあれば、イヤなこともあります。 楽しいこともあるし、辛いこともやってきます。
何もかも、自分の思い通りになるとは限りませんね。
だとしたら、私たちを不幸にしているのは、自分に起こる出来事ではなくて、それをどう受け取るかの違いなのでしょう。
「これはこうでなければならない」 「こんなことはしてはいけない」
知らぬ間に、そんなメガネをかけて見ているので、出来事は、ただそういうこととは受け取れなくなってしまっているのです。 これさえ手に入れば、あの人さえいなければ……
そんなふうに、自分の思うようになれば、幸せになれると勝手に決めているのです。
だから、思い通りにならないと、幸せになれないのですね。
「物事を自分が望むようにしていきたい」 「より良くなるように変えていきたい」
そう思うことは、健全で自分をより大きくしていくためには大切なことでしょう。
ところが、 「人も物事も、自分の思うようにならなければならない」 という思いは、ただ自分を不幸にするだけのようです。
もし、自分を不幸だと思っている人がいたら、知らないうちに、そんな『思うようにならなければならない』というメガネをかけていないかどうか確かめてみてください。
あるがままに、この世界を眺めてみれば…… 生まれたときから、毎日毎日が、私たちを幸せにしてくれる、すばらしい贈り物だったということが見えてくるでしょう。
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